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 先日、tactさんの別荘に皆でお泊りに行った際に、この「蹴りたい背中」が本棚の中に並んでいました。

史上最年少で芥川賞を受賞した作品と幾分前に話題を呼んだ作品だったので、一度手に取ってみようと思い、ぱらぱらと読んだ。
18歳の少女が書いた作品だし、そんなに面白くもないだろう、とたかをくくっていたところ、あっけなく、あっさりと引き込まれてしまいました。

当日に読み終えられなかったので、泣く泣くそれをtactさん家の本棚にしまって、このあいだ、後輩に借りまして、たった今読み終えました。
いろいろ感じるところがあったので、忘備録としてここに記しておくことにします。
(ただし長い)

∞+:;;;;:+∞+:;;;;:+∞+:;;;;:+∞+:;;;;:+∞+:;;;;:+∞+

中学生・高校生女子特有の空気感をうまく書き出しているな、と。
私の知りすぎてるもちゃもちゃとした言葉で捉えづらい世界をあんなにも、よく言葉でもって書き連ねていくことができるのな。
女子のグループや、実験の班決めのときに「取り残されて」しまう子たちとその心理。
物語はハツの視点で一貫して進んでいくのだけれど、その描写があまりにも、そう、あまりにもリアルすぎて、ぞっとした。
特に冒頭からp7のハツがにな川と出会うまでの数ページ。

頁〇〇四
「今日は実験だから、適当に座って5人で一班を作れ。先生が何の気なしに言った一言のせいで、理科室にはただならぬ緊張が走った。適当に座れと言われて、適当な所に座る子なんて、一人もいないんだ。ごく一瞬のうちに動く緻密な計算――五人全員親しい友達で固められるか、それとも足りない分を余り者で補わなければいけないか
――がなされ、友達を探し求めて泳ぐ視線同士がみるみるうちに絡み合い、グループが編まれていく。」

頁〇〇五
「あてがったというよりも、スムーズに私たちの所まで流れてきた、という方が正しい。余り者には余り物がしっくりくるのだ。いじめじゃない、ごく自然なことなんだ。似合うから、しっくりくるから、しょうがないんだ。」

それと高校生のハツは、人に対する洞察にとてもたけていることに驚きました。
むしろそれを書き出す綿矢さんに、驚きました。

頁〇八四
「「先生の頭、溶けてる!」
トレードマークである天然パーマが、雨に濡れておでこに張り付いている。指さして笑われると先生はさっそくとぼけた表情をして、驚いたように目をしぱしぱさせた。器用になったものだ、本当はああいう人じゃないくせに。」
そんな洞察の鋭いハツなんだけど、にな川のことに関しては、なにかよくわからないもやもやとした感情が湧き上がってくる場面は、また読みどころ。
一見恋愛感情なのかな、と思うけど、純度100!みたいなのではないように思う。
ハツの微妙な感情の揺れ動きが印象的でした。

全体を読み通して思ったのは、これは、もう大人になってからでは、書けない作品だな、と。
ここまで緻密な、思春期独特のふわふわした感情の動き。
実際にその時その場に身を置いている者にしかそれを表現することはできないだろうな。
筆者は、この物語を書くときにハツに自分を重ね合わせていたのかどうかが気になります。

そして、物語の一番最後にあった表現が印象的だった。
「いためつけたい。蹴りたい。愛しさよりも、もっと強い気持ちで。」

それはどんな気持ちなんだろう。私がかつてある人に対して抱いたことのある、「世界一愛してるし好きだけど、世界一憎いし嫌い」という感情と似るものがあるのかな、と考えました。

「愛する」と「憎い」の感情は間には遠い遠い距離があって、いわば対極の場所にあるのに、なぜそれをあのころ、いとも簡単に同時に抱いてしまったのかは、もう今となってはわからない。

その人に向き合うとその相反する二つの感情が湧き上がってきたこと、をただ事実として覚えているだけ。
なんて自分は屈折してるんだろうな、と自己嫌悪に浸っていたことも、記憶にある。

桜井さんが歌う「誰より愛おしい 誰より憎い」というheavenly kissの歌詞を聴いて、「わ、自分以外にも、これを感じる人がいたんだ」とひどく驚いた。

愛しいと憎いは紙一重なのかな、それよりもっと近くて、もしかして同じ場所にあるのかな。
と考えました。


ここで、これを読んだ読者はどう感じてるのか気になったので、レビューを眺めてみる。
「蹴りたい内出血を指で押したいさわりたいなめたい傷ついた顔を見たいもっとかわいそうになれもっと叱られればいいもっとみじめになれいためつけたい蹴りたい。

普通にわかります。」
と言う人もいれば
「つまらない、内容薄っぺらすぎる」
と言う人もいて、レビューを眺めてるだけでもすごい読みごたえがありました。

レビューを読んで、思ったこと。
この「蹴りたい背中」が舞台としているのは、誰もが一度は経験したことがある「高校生活」の日常の場での話なんだけれど、そのとき本人が数年間で経験してきた、学校あるいはクラスの中でのスタンスや位置づけが如実に作品の理解度に反映されてるんだな、と思った。

例えば、レビューの中に
「こういう<わざとなじまない感じの子>って実際はこういうこと考えてるのかなー。とか思ってしまったー。でも、その感覚、よくわかんない。」
というものがあって、なるほど、と思った。
きっとこのレビューを書いた方は、学生時代、そして今も絹代のグループの女の子たちのスタンスで日々を送っていたんだろうな、と。
ひねたところのない、ある意味真っ当でまっすぐな。

この作品を読んだ人の中にも、この「蹴りたい」という気持ちを「理解」する人、とわからない、って思う人のどちらもがいるんだなぁ、と。

とここまで打ち出して「理解」という単語が引っ掛かることに気付く。
この気持ちを知ってるのは頭で理解してるんじゃない、から理解という表現には語弊があって、むしろ「感覚」として「落とし込む」ことで自分はこの本を読んでいたのだな、と気づく。

自分でも何を言いたいのかよくわからなくなってきたのでそろそろ切ります。

「言葉」によってこの「蹴りたい背中」という物語は描写されているのに、言語というレベルのもうひとつ下にある「感覚」によって感じることで、作品を読み込んでいたことに気付きました。
このようなスタイルの本に私は初めてであったのでとても新鮮で面白かったです。

最後までこのだらだらとした感想に付き合ってくださった方がいれば、次回お会いするときにだいこん一本を差し上げます。
すみませんでした。
ありがとうございました。
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